平成を振り返る
この題名から真っ先に思い出されることは、
わたしは東日本大震災です、、、
割と最近のことですね。。
平成色々ありましたが❗
今もあの頃を鮮明に思い出します
私はかれこれ数年前に、関東の大学を卒業し、スポーツ推薦を受けて実業団に就職しました!
所属実業団は自衛隊でした‼
自衛隊って色んな科に分かれています。
みなさんが、想像する隊員にも、
普通科、通信科、施設科、食糧班、看護科など、、
空挺団やら、、たーーくさん🙄🙄🙄
そして、その中にはオリンピックを目指す選手の育成もしており、色んな種目の選手が日々切磋琢磨しながら生活している体育学校もあります✨✨
私はそこに所属していました!!
自衛隊ネタは色々ありますので、今後じっくり書きたいと思いますが、、Σ(゚Д゚)
私が体育学校2年目のときに、この東日本大震災は起こりました
ちょうど、私たちはナショナルトレーニングセンターというところ(赤羽)で合宿していたときです。
ガタガタガタガタ
ドーーーーーーーンっっっ!!!!!
という大きな音と衝撃で地面が揺れたのを覚えています。ただ、私そのとき練習中の真っ最中でして、
しかも競技が競技だけに全く動じませんでした。。
そう柔道中だったのです😲😲😲😲
他の選手もそこまで動じず、、、
あれ?おかしいな??くらいで、、
ただ数時間後に大変なことが起こったということはテレビやニュースで知ることになったのです、、、
何時間後かに全日本合宿は急遽中断されました、
そして各選手所属先へ帰ることが決まり、恐る恐る私達は自衛隊体育学校に帰ったのです、、
私は寮の8階に住んでおり、見事に色んなものが倒れていました、、!!
幸い、何も壊れたりはなかったのですが、、、
その日から自衛隊は人命救助、支援等で
緊迫した日々がスタートしました。
連日、自衛隊車、救護車で渋滞が起きており、すぐに道路は混雑した状況に。
朝霞駐屯地では、全国から集まった隊員が燃料補給や寝泊まり、物資などを配給するため、捜索等で来ていたのです。。
食堂も満員で、一人あたりの食べれる量も決まっていました。。
自衛隊員は現地で炊き出しや仮設お風呂などを作ったり、遺体捜索などで色々な危険な場所にいきました。
当然隊員達は、その間ずっと自衛隊の缶詰を食べ、お風呂も入らない生活を送っていました。。
不眠不休で動いていました。
皆、使命と責任感、あと一人でも多くの命を助けたい、、その気持ちだけで動いていたと聞きました。。
私達は、現地に行くことはなかったのですが、同じ自衛隊員として、この東日本大震災はとても衝撃を受け、とても鮮明に思い出されます。。。
あれから8年の月日がたった今尚、
現地の方々は未だ深い悲しみと傷跡が残り苦しまれているとおもいます。。
自衛隊はもう退職しましたが、自分にもなにか少しでもできることはしていきたいです。